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昭和歌謡アイドルピンク・レディー編~TVに正座~人気の秘密と名曲解説

ピンク色のカクテル

何をおいてもその時間だけはTV前に正座で集合!!

ビデオの「ビ」の字も家庭になかった時代、好きな歌手やアイドルのTV出演を見逃すまいと、TV前で正座して待ち構えたものでした。

特に、70~80年代にかけて生放送のベストテン系番組が流行っていたころ。

TBSの人気歌番組「ザ・ベストテン」を筆頭に、さまざまな番組で歌手たちの生歌唱を見ることができました。

「好きなスターやアイドルをリアルタイムで見ることができる」生放送での音楽番組が非常に多かったこの頃、貴重で贅沢な時間を味わうことができて本当にしあわせでした。

この「TVに正座」シリーズでは、特に昭和時代を彩ったスターに焦点を当てその魅力を解説していきます。

今回は昭和のスーパーデュオ「ピンク・レディー」について語っていきます。

先日NHKBS4K放送にて、昭和アイドルの仕掛け人たちのドラマ「特集ドラマ アイドル誕生 輝け昭和歌謡」が放送されました。

森昌子、桜田淳子、山口百恵の花の中三トリオを始め、ピンク・レディー誕生まで日本中を熱狂させたアイドルの誕生秘話がドラマ化され話題となっています。

2024年1月2日にはNHKBS放送(夜9:00~10:29)で再放送されますから、まだの方はぜひ御覧ください!

昭和歌謡アイドル好きの方、必見ですね!!

昭和歌謡アイドルピンク・レディー秘話

ピンク・レディープロフィールとスター誕生合格まで

ピンク・レディー
メンバー ミー ケイ
本名 根本美鶴代 増田啓子
現芸名 未唯mie 増田惠子
生年月日 1958年3月9日 1957年9月2日
出身地 静岡県静岡市 静岡県静岡市
活動期間 1976~1981年(その後再結成)
事務所 T&C、ビクター音楽産業(現JVCケンウッド、ビクターエンターテインメント)

中学2年時ケイがミーの通う中学に転校、演劇部に入部し2人は出会います。

その後2人とも歌手を目指しヤマハの全国オーディションに出場しグランプリを受賞したがデビューに至らなかったそうです。また、オーディション番組「君こそスターだ!」に出場をはたしますが不合格に終わります。

最後の挑戦と日本テレビ「スター誕生!」に出場し合格者となり、決勝大会へ進みます

決勝で意図的にノーメイク、白シャツにサロペット着用と垢抜けない雰囲気を演出して挑むと、見事合計8社から獲得希望のプラカードがあがり2人のデビューが決定したのでした。

「スター誕生!」にいたるまでこんなに苦労していたとは知らなかったですね。

ピンク・レディー「スター誕生」からデビューまで

「スター誕生」決勝大会で注目を浴びていたのはピンク・レディーではなく清水由貴子さんでした。

ビクター音楽産業(レコード会社)の飯田久彦さん元々歌手『ルイジアナ・ママ』で一斉を風靡するもその後ヒットが出ず栄光も転落も味わった人。

「スター誕生」決勝大会にビクターのスカウトマンとして臨みます。

獲得希望のプラカードが上がらなかったらデビューできないという公開処◯のような厳しいこの現場は、演者の気持ちがわかるだけにあまり好きではなかったと飯田氏は語っています。

ところが決勝大会でミーとケイの歌を聴いた時心にひらめくものがありました。

レコード会社上層部は2人のオーディション時の風貌そのままにフォークデュオとしての売出しを考えていました。

しかし飯田氏は引退してしまった「ザ・ピーナッツ」のように歌って踊れるデュエットを作りたいと思い上層部の考えていた方向性に真っ向から反対を唱えます。

最終的に上層部も根負けし飯田氏の方向性が採用となりました。

飯田氏はレコード会社上層部からの期待が少ない2人だっだからこそ自由にさせてもらえたと後に語っています。

そしで「ピンク・レディープロジェクト」と呼ばれるミーとケイを売り出すためのチームを立ち上げます。

飯田氏、「スター誕生」審査員からは2人に対して酷評していた作詞家阿久悠氏、作曲家都倉俊一氏。そして振付師の土居甫氏

阿久悠氏都倉俊一氏のコンビは当時「フィンガー5」「山本リンダ」などのアーティストへの楽曲提供を行い、全てヒットしていました。

確かにこの2組の楽曲『学園天国』『恋のダイヤル670』『狙いうち』『どうにも止まらない』など当時小学生の筆者の胸にグルグルとくるものがありました!!

このコンビの作品だとは知らなかったです。どの曲もスピード感のあるロックですよね。

都倉氏は最初ミーとケイにつけられたフォーク風のデュオ名「白い風船」を変更したいと思っていました。

ある時カクテルの名前「ピンク・レディ」がミーとケイの「カクテルのように大人っぽくかつ爽やかなイメージ」にぴったりだと感じ、デュオ名を「ピンク・レディー」にしよう!と思いついたそうです。

ミーとケイは「白い風船」という名を聞いて「終わった」と思っていたので、この名を聞いて喜んだそうです。

そして土居氏は厳しいレッスンに定評のある振付師。ザ・ピーナッツ、ザ・タイガースの振り付けからスター誕生からデビューする歌手の振り付けを担当していました。

この4人のチームは前人未到の景色をこののちに見ることになるとは思いもよらなかったでしょうね。

昭和歌謡アイドルピンク・レディー人気の秘密

デビュー曲『ペッパー警部』は当初売れ行きが芳しくなかったのですが振り付けを真似する小学生のファンが火付け役となり、2曲目のシングル『S.O.S』がリリースされる頃、2曲同時にベストテンに入り始めます。

それ以降ピンク・レディーは出すシングル全てがチャート上位に上る時代の寵児となります。

ピンク・レディーの関連商品が販売されると特に小学生の女の子など低年齢層を中心に飛ぶように売れ、2人の人気に拍車をかけます。

その頃の学習雑誌や漫画雑誌の付録にまでピンク・レディー関連商品が進出して一大ムーブメントとなっていました。

そしてもちろん子どものみならず大人まで幅広い年齢層に大変人気があり、2人の大ヒット曲のほとんどを今でもアラフィフ世代は踊れるというくらい、曲と振り付けが世の中に浸透していました。

その人気の秘密を4つ挙げてみます。

ピンク・レディー人気の秘密①大胆な衣装

これからはディスコブームだ」と直感したディレクターの飯田氏は、ミーとケイの若くはつらつとした魅力を全面的に押し出すことのできるリズムやビートの効いた楽曲を発注しプロデュースに本腰を入れ始めます。

そして2人のスタイルの良さを生かしミニスカートやホットパンツなどの大胆な衣装が採用されたのです!

このピンク・レディーの印象的な衣装デザインでヒット曲に貢献したのは野口よう子氏。

マイクロミニのスカート、ホットパンツ、ミニのキャミソールドレス、ワンショルダーやチューブトップなど。

素材で特徴的だったのはぎっしりと縫い付けられたスパンコール

スパンコール

事務所からの衣装の発注は「アメリカのショービジネスのようなキラキラしたものならなんでもよい」ということだったようです。

ピンク・レディーは衣装に関して何一つ不平不満を言うことなく、毎回受け入れたそうです。

そしてその素敵な衣装は本当に2人の素晴らしいスタイルを引き立てるものでした。

ピンク・レディーがデビュー以来数年間超ハードスケジュールをこなしていたのは伝説となっていますが、衣装デザインの野口氏も引退までの約4年間数百枚ともいわれる衣装をデザインしてきたそうです。

そして「明日の朝までに色違いの衣装を作って」と言われ、一晩で衣装を仕上げ、本番2時間前に本人たちに届けるという綱渡りのような仕事を何度もこなしてきたとのこと。

野口氏はピンク・レディー全盛期を振り返り「ピンク・レディーとの4年間は本当に楽しかった」と語っています。

このような素晴らしいスタッフの努力がピンク・レディーの人気を支えていたのですね!

セクシーなのにいやらしくなく健康的な明るさと爽やかさを備えたピンク・レディーの2人は、可愛いのにカッコよくそしておしゃれ

これまでの日本のアイドル歌手にはない新しい魅力にあふれ、子どもから大人まで、そして男女関係なく大人気となったのです。

ピンク・レディー人気の秘密②キャッチーな振り付け

ピンク・レディーのデビュー曲は『ペッパー警部』。

Bメロで足をガニ股に広げながら、手のひらもビラビラさせる、独特の振りつけ

最初は「おおっ」と誰もが少し驚くような(実際あの振り付けに品がないと文句を言う人もいたとか)ポーズもピンク・レディーが踊っちゃえばカッコよくおしゃれに決まるのです。

特別にダンスを習っていなくても(もちろんお二人は基礎をしっかりされた上での振り付けでしょうが)素人でも簡単にマネができ覚えやすいこのキャッチーな振り付けに子どもから大人まで夢中になったものでした。

いまだにほどの曲数の振り付けを世の中の人が今だに覚えているスターはいないと思います!!

当時の小学生雑誌やアイドル雑誌にピンク・レディー楽曲の「振り付けの分解図」が本人たちの写真入りで載っていました

また、テレビ番組などでご本人たちが振りのコツなどを語る場面もありました。

ミーは「細かい手の動き」が得意。ケイは「大胆な動き」が得意。これは当時ご本人たちがそのように話されていましたよ。

こんな2人のサービス精神も相まって、日本全国みんなこぞってピンクレディーの振りを覚えることに夢中になっていったのです。

ピンク・レディーの振り付けを担当していたのは土居甫氏。

土居氏は70年代から80年代のアイドル歌手たちの振り付けを多数手がけています。

土居氏のレッスンの厳しさは有名で、他のアイドルだと余りの怖さに泣いてレッスンが中断、ということも日常茶飯事だったようですが、2人は唯一泣かずについてきた。

プロ根性と強い精神力があったのですね。

土居氏は「ずっと長い間待ち続けていた素材にめぐり会ったような気がした」と出会いから2人に対して運命を感じていたことを打ち明けています。

特に2人の高身長(ミー:165cm、ケイ:163cm)【※資料により異なります】と脚の美しさに魅力を感じたとのこと。

さらに「2人の脚には表情がある」と土居氏は絶賛し、

「これまでのテレビの常識を打ち破りテレビからはみ出すほどのパワーのある振り付けにしよう」

と考えたのが、この『ペッパー警部』に登場する脚の表情を生かした振りつけだったのです。

土居氏は「3人目のピンク・レディー」とも言われ、デビュー曲から12曲連続ピンク・レディーの振り付けを担当し、ピンク・レディーのヒットに欠かせない人物となっていました。

ピンク・レディー人気の秘密③キャッチーな曲

ピンク・レディー楽曲作成者といえば、阿久悠&都倉俊一コンビが有名。

阿久・都倉コンビはデビュー曲『ペッパー警部』から『波乗りパイレーツ』まで13曲連続で担当していて、そのうちで10曲がオリコンチャート1位を達成するというとんでもない快挙を成し遂げています。

しかも連続9曲で通算63週1位というのは、のちの2015年にB’zの『有頂天』が記録更新するまで約27年間破られることがなかったというスゴイ記録なのです。

ピンク・レディーの曲はペッパー警部』『S.O.S』『カルメン’77』『渚のシンドバッド』など曲のタイトル自体に従来のアイドル曲になかった強烈なインパクトがありました。

そして阿久悠氏のめくるめく物語性をもった詞の世界観に子どもから大人まで酔いしれていったのです。

また作・編曲を一手に引き受けていた都倉俊一氏ですが、実は英語、ドイツ語、フランス語として日本語と4カ国語にも通じる帰国子女だったということは知りませんでした。

都倉氏は途中帰国はあったものの7歳から大学入学までドイツのアメリカンスクールで過ごしていて、多感な時期に洋楽のシャワーを存分に浴びていたようです。

こうした洋楽のエッセンスが都倉作品の楽曲制作に生かされているようです。

洋楽のエッセンスをふんだんに取り入れつつも日本人好みに味付けし、なおかつ1曲の中に静と動を組み入れた心躍るエネルギッシュな曲たちにどれだけ私たちはワクワクしたことでしょう。

曲だって歌詞だって2番まで今だに出てくる曲がほとんどですし、イントロを聴くだけでどの曲かわかります!

人気の秘密④申し分ない歌唱力

ピンク・レディーといえばインパクトのある曲とダンスパフォーマンスが注目されがちですが、歌唱力も申し分なく素晴らしいデュオでした。

ミーは高音担当で、ケイは低音担当

マイクの写真

デビュー曲から息のあったハーモニーを聴かせてくれています。

そして張りのあるエネルギッシュな歌声

あれだけの激しい振り付けで踊りながら、息があがることなく歌う2人は今思うと本当にすごかった!!

当時のTVでは生で歌を歌うのが当たり前でしたが、現在のアイドルを考えるととても貴重なパフォーマンスだった気がします。

時には明るく可愛らしく、時には大胆に歌の世界観に浸りきって。

ピンク・レディーが多くの世代の心をひきつけたのは、そのパフォーマンスの振り幅の大きさ、思い切りの良さだったのではないでしょうか。

昭和歌謡アイドルピンク・レディーオススメ名曲

最近でも『渚のシンドバッド』『UFO』などがCMに、そして『サウスポー』は野球応援の定番曲に……とデビューの1976年以来、日本国民はピンク・レディーの曲を常にどこかで耳にしてきました。

今さらですが、ピンク・レディーの原曲を改めて聴いてみると今なお新しさを感じたり、詞の斬新さに驚いたりします。

上記の3曲は50代女子が今でも曲を聴けば踊れる曲としてテッパン中のテッパンでオススメ中のオススメなのですが、今回はあえてそれ以外のオススメ曲を解説していきますね。

ピンク・レディーオススメ曲①カルメン’77(作詞阿久悠、作・編曲都倉俊一)

3枚目のシングル(オリコンチャート最高1位売上枚数66.3万枚)。

タイトルは情熱的なスペインのオペラ歌劇の「カルメン」から取られています。

2枚目シングル『S.O.S』の明るく可愛い雰囲気から一変、情熱的でドラマティックな曲展開。

イントロに使われたブラス(金管楽器)の演奏が印象的

これは米国のブラスロックバンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの「Lucretia Mac Evil」という曲が元ネタだと語っています。

曲調が二転三転しながらも情熱的で少し大人の色気を感じさせる歌と、これまでになかった激しい動きの振り付けが特徴的なのですが子どもにも真似できるやさしい振り付けなので当時鏡を見ながら夢中で踊りました!

「カルメ~ン カルメ~ン♫」

ピンク・レディーオススメ曲②ウォンテッド(指名手配)

5枚目のシングル(オリコンチャート最高1位売上120万枚)。

冒頭でお互い向き合って腕を交差させて歌う振り付けや、その後「ウォンテッド!」と英語でシャウトする歌い方は斬新!!

歌の途中の台詞(ラップ)「ある時謎の運転手」「ある時アラブの大富豪」、その後「好きよ好きよ~」とムーディーな歌唱。

そのめくるめく展開に「2人がこの曲を歌うところをもう一度見たい!」とさらに人気に拍車がかかっていったように思います。

この曲にはある意味2人のパフォーマンスの中でも麻薬的な魅力満載だったのではないでしょうか。

衣装も今まで2人常にお揃いだったのが、ミーは黒、ケイは白と初めて違う色だったのも印象的です。

前作『渚のシンドバッド』に続いて頭部に羽飾りがついているのも特徴的で、ピンク・レディーのモノマネをする場合に欠かせないアイテムだったように思います。

ピンク・レディーオススメ曲③カメレオン・アーミー

10枚目のシングル(オリコンチャート最高1位売上70.8万枚)。

なんといってもこの曲は衣装がカッコよすぎました!

スパンコールギラギラで軍服を型どりながらも両肩が空き、ホットパンツで美しい脚が映えるという摩訶不思議でかつミーとケイの魅力満載の衣装でした。

帽子はバスガイドさんみたいなちょこんと頭にのせる小さなもので、本当に2人に似合っていました。

色も何色か色違いがありましたが、カメレオン色の緑のスパンコール衣装が最も2人にハマっていたように思います。

当時、テレビ番組ではこの歌を歌う最中に2人の衣装がまさにカメレオンの如く色が変化するという特殊効果が用いられていました。

アップテンポでノリの良いメロディー。そしてよく考えるとなぜ『カメレオン』が『アーミー』なの!?と不思議な歌詞。

そう、あまり深く追求してはいけない歌詞なのです。

その不思議さやノリの良さにはまだ大衆をひきつける魔法は十分にありましたが、残念ながらこの曲はピンク・レディーが1位を取った最後の曲となり次第にブームは下火へとなっていくのでした。

まとめ

以上昭和歌謡のスーパー・デュオ、ピンク・レディーについて解説しました。

十分に語り尽くせていませんが、ミーとケイの魅力を知るきっかけとなれば幸いです。

  • 昭和歌謡アイドルピンク・レディー秘話
  • 昭和歌謡アイドルピンク・レディー人気の秘密
  • 昭和歌謡アイドルピンク・レディーオススメ名曲

わずか4年7ヶ月という短い期間の中でアメリカ進出も実現したピンク・レディー。

2人の大活躍に拍車をかけたのも日本のマスコミであり、またアメリカのビルボードにおいて全米37位という坂本九さんに次ぐ記録だったにもかかわらず2人を叩き評価を与えなかったのも日本のマスコミでした。

1度は解散したものの、再結成を何度か繰り返しついには解散をやめにしたミーとケイ。

現在2人の最新パフォーマンスをYouTubeで見ることができますし、往年の名パフォーマンスはDVDで見ることができます!

ピンク・レディーはみんなの夢そのもの。青春そのもの。

現在も2人仲良く踊っている姿は本当に尊くて感動してしまいます!

これからも派手でギラギラの衣装を身にまといながら心躍る名曲を踊り歌い続けてほしいですね!!

最後までお読みくださりありがとうございました!

またのご来店をお待ちしております。

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